吉村昭さんの「星への旅」を読んで

「いきなり長編小説にチャレンジするよりも、一文一文勝負の短編小説から入った方がまだ書きやすいだろう」

特に根拠は無い。
自分で何となくそう思うだけだ。

そんな思いから、今短編集を読んでいる。
もちろん「この人は」と思える作家の短編集だ。

小説の審査委員の方々の言葉をネットで拾っていると、「文章表現を重視する」という方が多い。
あと、「読者からお金を取るに足りるだけの価値があるか」という意見。

当たり前だ。

小説を買っていただき、なお且つ固定の読者になってもらえる為に一生懸命書くわけだ。
それくらいは分かる。

その上で思うことは、万人受けする小説家にはなかなかなれないと思うが、「つまらない」とは絶対言われたくない、ということ。
せいぜい、

「よく書けていると思うけど、なんとなく好かないな」

くらいで留めておいてもらいたい、これは書き手側のエゴだが。
どこのBook Offにもよく見かける「常連本」にもなりたくない。
もし見かけてしまったら、相当ショックだろうと思う。

今まで長編ものを多く読んできた。
初めて読む作家の作品は決まって「一番の長編もの」を選ぶ。
理由は、

「作家にとって一番の長編作品は力作なはず」

という私の勝手な判断だ。
力作だから面白いはずだと。

しかし、地に足の付いた売れっ子作家さん達ならいざしらず、これから新人賞を目指そうとしている私のような「よちよち作家もどき」にとって、短編ものでも無駄な記述で膨れあがる可能性が高いのに、長編ものから書き始めるなどというのは、やはり危険な気がする。

というか、まず書けないと思う。

まずは、自分の間尺にあったページ数の作品を世に出すことから始めた方が良いに決まっている。

本は好きで昔から暇さえあれば読んでいた。
今まで長編小説を中心に読書を続けてきた私にとって、短編集というのは何か物足りない感じがする。
読後に味わう「感動の痺れ度合い」がどうしても違う。

長編小説に比べて「迫力不足」は致し方ないか。
限られたページ数で読者を落とさなければならないんだから。

しかし逆に言えば、少ないページ数で結果を出さないといけない短編小説にとって、描写や会話の一文一文の精度がかなり要求されるように思う。

短い物語で読者を惹きつける。
いずれにせよ文章センスが問われることに違いは無い。

さてそんな中、今読んでいる短編集は、昨日ご紹介した作家、吉村昭さんの作品。
昨日の「仮釈放」の書評でもご紹介しましたが、念の為もう一度吉村昭さんの経歴をアップしておきます。

1966年太宰治賞作品。
吉村昭さんが長い下積み時代を経て、初めて文学賞を取った作品だ。
短編が全部で6作品、その中でタイトルと同じ作品「星への旅」が今回ご紹介する小説。

「うーん、ここまで書けば太宰治賞か」

私のような実績のない駆け出しが、吉村昭さんの初期の頃の作品とはいえ、コメントを差し挟むのもおこがましい限りです。
しかし、テーマの先見性と言い、死に向かっていく若者達の心理描写の巧みさと言い、ここまで持って来ないと賞には届かないんだなと、引き締まる思いです。

テーマは1966年という時期には斬新だったであろう「若者達の集団自殺」を取り上げた。
まだ10代の男の子から20代のリーダー格の男。そして何度も妊娠中絶を繰り返した若い女性に、片足麻痺のハンディを持つ男。

毎日を目的無く過ごす主人公が、この奇妙な若者グループとひょんなきっかけで繋がり合う。

この物語に登場する若者は、皆無為な日々を過ごし、持て余し、腐っている。
自分自身のアイデンティティが薄らぼやけて見えなくなり、そんな生活に生きる意義を見失っている。

そんな若者達にとって、同じ悩みで苦しむ仲間達と共有する時間が、独房の高窓から差し込む光溜まりのような温もりと安らぎを与えてくれる唯一の価値あるものとなる。

しかし、その歪な人間関係で繋がれた若者達であるが故に、独力では這い上がれそうにない深淵に沈んだ閉塞感を感じている。
身動きできないもどかしさに日々力を奪われて行くような。
そして何より怖いのは、光に向かってもがきあがくことを諦めてしまうこと。

そんなある日、若者達の一人がふと漏らした「死のうか」。
この何気ない一言から、死地へと向かう旅が始まる。

どうだろう、1966年だからこそ認められたストーリーかもしれない。
今であれば、自殺擁護と叩かれるかもしれない。

しかし1966年の時点でこの着想は驚愕に値すると思う。
今でも同様の事件が起きても何の違和感もない。

物語の終焉。
主人公が死地に近づく度にこみ上げてくる死への恐怖。
自分だけが死の恐怖と戦っていると思う焦燥感。

「逃げようか、逃げるなら今だ」

しかし逃げる事が出来ない。
自ら死ぬことへの勇気よりも、仲間に背中を向けて逃げる勇気のほうが明らかにちっぽけで容易いはずである。

でも主人公は足が動かない。
飼い慣らされた羊の群れから抜け出すことができず、群れが動く方向にしずしずと足をむける1匹の羊そのままである。

「若者達の集団死など、本当に実現するのだろうか」
「そんなに簡単に死を受け入れることができるのか」

最後の最後までどうなるか分からない。
しかし、命の重さをまだ理解出来ていない若すぎる子供たちだからこそ、ひょっとして勢いで妄動が完結してしまうのか。
本当に最後のページまで分からない。

死んで悲しむ人などいないと言い切る子供たち。
極端に家族の愛から見放された若者たち。

そんな疎外感に立ち向かう術も無く、死をもって解決しようとする短絡的な考え方。
希望漲るはずの若者達にとって、真逆の状態は死ぬほど辛いことなのだろうか。

吉村昭さんが「星への旅」を書いて50年近くが過ぎる今。
作品に漂う若者の「もろさ」は、その「力強さ」の陰で目立たないが、しかししっかりと根を張って増殖しているように思える。

この1点の傾向を捕らえた吉村昭さんの未来への慧眼が凄いと感じる作品です。


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