吉村昭さんの「仮釈放」を読んで

吉村昭さんの作品を読むと、いつも城山三郎さんを思い出す。
フィクションの匂いをそぎ落とした、あくまでも事実を積み重ねていくあの語り口。
今も私の中でノンフィクションの最高傑作は、城山三郎さんの「落日燃ゆ (新潮文庫)」だ。

史実を忠実に表現するために、自身が納得するまで取材を繰り返す。
城山三郎さんも今回ご紹介する吉村昭さんも同じスタンスだ。

主人公の口を通して語られる話に、独断的な要素はほとんど無い。
書き手の主観を殺して、登場人物と共に広がる光景、出来事、それを受けてどう感じたのか、が緻密に語られる。
主人公が置かれている時代、その当時の世相が信じられないくらいきめ細かく描写されている。
読み進めながら、自分も登場人物と肩を並べて歩いているような気になる。

そして事実の積み重ねにもかかわらず、読後に味わうあの深い感動。
これを味わうと、下手なフィクション作品など読めなくなる。

吉村昭さんの作品は緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学が多い。
そんな中で今日ご紹介する「仮釈放」は全くのフィクション作品だ。
実在する特定の人はいないと本人も解説されている。

    • 【作家名】吉村昭さん
    • 【生年月日】1927年(昭和2年)
    • 【ご紹介本】「仮釈放」
    • 【出版社】新調文庫
    • 【作家の経歴】※吉村昭 Wikipedia より

・1966年 『星への旅』で太宰治賞
・1973年 『戦艦武蔵』『陸奥爆沈』『関東大震災』などで菊池寛賞、『深海の使者』で文藝春秋読者賞
・1979年 『ふぉん・しぃほるとの娘』で吉川英治文学賞
・1985年 『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞、『破獄』で読売文学賞および芸術選奨文部大臣賞
・1987年 作家としての業績で日本芸術院賞
・1994年 『天狗争乱』で大佛次郎賞
・1997年 日本芸術院会員
・2006年 死去にともない従四位及び旭日中綬章
・第1回司馬遼太郎賞に選ばれたが辞退している。

妻と妻の不倫相手の母親を殺した罪で、無期懲役刑に処される。
15年間刑務所で模範囚を続けてきた主人公に、ある日待望の仮釈放が言い渡される。
刑務所より仮釈放される直前からこの物語は始まる。

その主人公の置かれた状況、深層心理、そしてその揺れ具合、ため息の匂いまで伝わってきそうなほど写実的な描写に支えられながら、淡々と話は進む。

仮釈放という制度の説明、主人公が社会復帰の為に働く養鶏場の経営の説明、まるで吉村さん自身の実体験を元に書かれたのかと思わせるほど精緻な描写で物語りの臨場感を際立たせている。

吉村昭「仮釈放」の文庫版
吉村昭「仮釈放」の文庫版

書籍の帯にも書いてあるが、この話のテーマは、

「殺したことを本心から悔いているのか」。

人間の心までは届かない法律の限界。
そして本心から悔い改められない人間の悲劇について世に訴えた作品である。

犯した罪を心の底から悔やみ、手を下してしまった相手への謝罪の気持を胸に秘めて生きていく。
その贖罪の意識を自覚させることが刑に服する目的であるはず。

しかし、「仮釈放」に描かれる主人公の男には、この意識が無い。
芽生えない。
しかし、それを誰も気がつかない。
気がつかないまま「仮釈放」される。

そして仮釈放された後、無期懲役刑の囚人には「保護観察」を付し、一生「保護司」や「保護観察官」との定期的な面接義務がついて回る。
毎月定期的に面接を受けに保護観察官のもとへ顔を出さないといけないので、長期の旅行なども一々許可制である。
しかし、その保護観察官でさえ気がつかない、主人公の罪に対する本心。

危ない話である。

死刑執行を前に囚人の最後の対話に臨んだ住職の「最後の言葉」を集めた書物を読んだことがある。
そこにはこんなくだりがあった。

「彼はこう言ってました。『あの時あいつが手を出してこなかったら・・・』。
最後まで悪いのは自分ではなく他人だという囚人に亡き者にされた家族にとって、囚人の極刑以外の救いはあるのでしょうか」

もちろん悔い改めていないものに仮釈放という恩赦は降りないと思う。
しかし、「不倫をするものが悪い」と心でつぶやき続けるが、誰が見ても「模範囚」の行動を取り続ける主人公。
規則正しく模範囚を続けていれば、法で定められた規則に則り「仮釈放」のチャンスを与えることもまた当然の成り行きだ。

「法律は人が犯した罪は裁けるが、その人の罪の意識まで裁くことはできない」

解説にも書かれている。
人の心の奥底にある罪の意識。
そこは本人と神のみぞ知る、誰も踏み込んでいけない領域だ。

囚人に限らない。
普通に生活する私達にも同じような罪の意識は必ずあると思う。

  • 気に入らない他人に対し死ねば良いと思う気持
  • 他人の不幸に安堵しあざ笑う気持
  • 自分だけが助かれば良いと思う都合の良い考え方

何かの拍子で犯罪に手を染めてしまう人と、私達との違いとは、持つ「罪の意識」だけを見て比較すれば紙一重で、実はあまり大差がないのではないか。

この「仮釈放」を読みおわった時、決して異次元の話ではなく、とても日常的な話のように思えて、思わず背筋に冷たいものが走った。
裁かれることのない「罪の意識」は自分にもある、確実にある。
そういう意識を常に心の襞で抑え込みながら、何とか生活しているだけではないだろうか。

大きな罪を犯してしまった後でも悔恨の気持が湧き起こらない罪人。
そんな罪人を悔い改めさせることのできるものとは一体何か。

長い刑期を科すことはもちろんだが、それだけではダメな場合もある。
刑期が長ければ長いほど、反比例して手を下した相手に対する憎悪の念も蓄積されてしまう場合もあるかもしれない。

刑務所内では押し込めていた憎しみも、釈放され自由な空気を吸うごとに遺恨の念が蘇り、再び犯罪に手を染めてしまうケースもあるだろう。

人間に対する怨恨の情は、それとは真逆の「愛情」以外に抑えることは出来ないのではないだろうか。
月並みな結論だが、これしか思い浮かばない。

人間に巣くう「恨み」を、その人間の臓器と同じ不可分なものとして、合わせて愛を持って接し続けることのできる人がもし目の前に現れたなら、その罪人は救われるかもしれない。

しかし・・・

この物語の主人公にはそれすら通じなかった。
まさに悲劇である。

精神異常者という簡単な言葉で片付けてしまうことはできない。
表向きは普通でも、心の奥底で病んでいる人は、現代社会に数多くいるように思う。
その歯車がちょっと狂うだけで、犯罪を引き起こしてしまう怖さを感じる。

隣人が孤独に「罪の意識」と戦う人であったなら。
心を病んで、歯止めが効かなくなり、本人の罪の意識との戦いに負けてしまったとしたら。

最後の一文まで健常者のように振る舞う主人公のさりげない行動に戦慄を覚える。
読み終わった後、思わず目を閉じてうつむいたまま、身動き出来なかった。
振り絞るような深いため息しか出てこなかった。

重いテーマだが、自分に置き換えて考えることで、価値を感じさせてくれる吉村昭さんの秀作である。


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